石を売る

無能オヤジの無能ブログです

ニートオヤジと娘の話

 ちょっとあいだがあいてしまいました。ここまで「ブラック企業に勤めていた頃の思い出」を続けてきましたが、ここで一息入れて日常生活の話。

 

 わたしには妻、息子、娘がいて同居していますが、普段家族と話をすることがほとんどありません。妻、息子、娘はとても仲が良くて家にいるときはいつもリビングで一緒にいます。わたしは食事をする「瞬間」は一緒にいることが多いですが、ほとんど数分、長くとも十数分ぐらいで食事を終え、自分の部屋に引きこもります。

 世の中にたぶん大勢いるニートや引きこもりの子はこんなかんじでしょう。わたしはニートオヤジですね、そうすると(苦笑) ただ自分もそのほうがいいし、他の家族もそのほうがいいので、別段なにも問題はないんですね。お互いに仲が悪いということでもなく、要するにわたしは「空気」、というよりーー「空気」は必要なものなのでーー「路傍の石」と言うべきでしょうか。

 世間にありがちな教育論や家族論からするとこういうのは非常にまずいパターンでしょうが、わたしからするとそういうのは「うざい」だけです。自分では少なくともDVオヤジよりはましだと思っています。

 にもかかわらず、とくに中学生の娘はわたしをうざがっているふしがうかがえ、たぶん早くいなくなればいいと思っているんじゃないでしょうか。父親としてふがいなさ過ぎるから目障りなのかもしれませんが、しかしまったく没交渉なので存在そのものが目障りということなのでしょう。ただ世間でよく言われるような「父親らしい」ふるまい、たとえば「勉強を教える」とか「一緒に出かける(買い物やレジャー)」とか「学校の話をする」とかはやればやるほど「うざっ」になるのは目に見えている(そんなにやってたわけではありませんが)ので差し控えております。

 他方、息子はひょうひょうとしていて何にも気にしていないようなのですが。

 

 おそらく一生心が打ち解けるというようなことはないと思いますし、わたしは別段それでいいと思っているのですが、もし娘がこの先なんか落ち込むようなことがあって、「みんなお父さんのせい!」とか罵倒されたりしたら、ものすごく心外というか、たしかに裕福な生活ができないのはわたしのせいかもしれないが、できうるかぎりのことをしているつもりなので、それは八つ当たりもいいところだと本当は言いたいのですが、結局すべて責任を負わされる予感がすごくします。

 まあいいですけど。

ブラック企業に勤めていた頃の思い出(6)

 ブラック企業の特徴の一つは、従業員の入れ替わりが激しいことです。

 つまり、新入社員は会社に入ってすぐ辞める、1年、半年ももたない。必然的に社員の平均年齢は若くなり、「若々しく活気にみちた」職場になる(苦笑)。「やる気次第」で「入社1年目で年収ウン百万」「責任あるポジション」になれる「やりがいのある」職場になる(苦笑)。

 実際は過酷な労働環境で「年収ウン百万」になるまえにほぼ全員辞めてしまう。そして会社側もそれは織り込み済みで、「やる気のない」人間にはどんどん去ってもらう、というスタンスで経営している。

 

 ただこのような経営スタンスは、スキルがさほど要求されない仕事についてのみ可能です。典型的には飲食店の皿洗いや接客アルバイトのような仕事です。多少スキルが要求される仕事だと、いくらOJTといっても新人教育にはそれなりにコストがかかるので、そう簡単に辞めてもらっては困る。とりわけ少人数の零細企業にそれは当てはまります。

 わたしのいた会社は主に食品メーカーやスーパーなどの販促キャンペーンやイベントを企画・運営するのが中心的な業務で、日本におけるその種の仕事の総元締めは電○、博○堂などの大手広告代理店です。その下に無数の下請けがぶら下がっているわけですが、末端になればなるほど特殊技能化しなければやっていけない。

 ウチの会社もある特殊技術に圧倒的な強みをもっているという触れ込みで何とか仕事をとってきていたのですが――じつはそれは半ばハッタリに過ぎなかったのですが――それをこなすためにはそのためのスキルをもった技術者とそのアシスタントが2、3名いれば十分できる程度のものでした。

 ただそのときその技術者には当然専門的スキルが必要ですが、アシスタントにもある程度の知識と習熟が必要です。特に何らかの資格が必要なわけではありませんが、オフィスソフトが一通り使えてエクセルの簡単なマクロは組めるぐらいは前提知識として必要です(これは一応採用条件にはなっていました)。

 それに加えて、他の分野ではまったく必要のない実践的スキルも仕事をする上でけっこう要求されるので、結局会社に入ってから教えるしかないし、覚えるしかない。

 したがって会社としては、あまりにも簡単にやめてもらっては困る。しかしその一方で、優しく丁寧に教育するとか、要領を覚えるまでは暖かい目で見守るとか、そんなことがあるわけがない。

 

 それでどうするかというと、簡単に言えば「逃げられないようにする」わけです。

 

ブラック企業に勤めていた頃の思い出(5)

 ブラック企業の三大必要条件(?)は低賃金、サービス残業パワハラであろうかと思います。

 わたしが勤めていた会社はもちろんそれらの条件をクリア(?)していました。ただ、「低賃金」に関しては、見かけ上は20代の新入社員だとコンビニでアルバイトするよりはましではありました。ただし問題は「サービス残業」で――もちろん「サービス」したくてしているのではありませんが――それも含めて時給に換算すると最低賃金を大きく下回るという悲惨な状況でした。ちなみにわたしは「専門職」扱いだったので手取りで中小企業の平社員並みぐらいはありました(それでも年齢を考慮すると悲惨といえば悲惨ですが)。

 わたしは若い社員に常々「こんなところにいるぐらいならコンビニでアルバイトしていたほうがましだろう?」と言っていましたが、それでもある程度は頑張るので不思議でした。たんに最近の若者にしては根性があるとかということではなく、どうもみな「正社員」というポジションにこだわりがあるようです。つまり「正社員」でなくなることが大変な恐怖らしいのです。

 

 わたしは前に書いたように以前は専門学校や塾の講師をしていたのですが、講師という職業は事務職よりは専門職に近いです。専門職の代表は医師、看護師、弁護士、行政書士社会福祉士などいわゆる士(師)業ですが、こういった専門職は特定の企業や団体に所属していても独立性が高く、帰属意識もそんなに強くない。資格が必要なので労働市場はそれぞれの職業内で閉じていますが、他の職業に比べると流動性は高い。そして賃金や待遇はそれぞれの資格やスキル、キャリアに大きく依存していてどこにどのような身分で所属していたかはさほど重要ではない。なので「正社員」という身分にこだわりをもっている人はそれほどいないと思います。

 

 その一方で営業、販売、事務などの職業は「正社員」という身分、つまり正規雇用にこだわりが強いようです。たしかに正社員と派遣・アルバイトなど非正規雇用、あるいは同じ正社員でも大企業と中小企業では賃金も待遇も福利厚生も大きく格差がある。ですから「大企業」や「正社員」へのこだわりが強いのは一般論としては分かります。

 ただしそれは正社員が派遣・アルバイトより恵まれているという「正常な状態」にある場合です。わたしのいた会社はそうした「正常な状態」にはまったく、逆に正社員の方が劣悪な労働条件にある。なので、それにもかかわらず「正社員」にこだわるのはわたしから見るととても不思議でした。

 たぶんいったん派遣・アルバイトなど非正規雇用になるとそこから再度正社員として就職するのがすごく難しい、という現実とそれに対する恐怖がこだわりの背景にあるのでしょう。ただはっきり断言できますが、ブラック企業にいるのは人生のムダ遣いです。それぐらいなら、コンビニでアルバイトしながら資格の勉強するとか起業にチャレンジするとかの方が、かりに成功しなくても重要な経験として残ります。

 たしかにブラック企業も「自衛隊体験入隊」みたいなもんだと考えれば、体験してみる価値はあるかもしれません。しかし「体験入隊」程度に留めておくべきです。長くいても有意義なことはまったくありません。若ければ若いほどそうです。わたしみたいなオヤジになると―とくに無能オヤジになると―「人生のムダ遣い」とかもはやどうでもよくなるので、嫌な思い出にはなりますが「後悔」はそんなに感じませんが。

 

 じっさい若い社員はけっきょくは全員例外なく心身ともにボロボロになってやめていきました。みんな素直で気のいい若者だっただけに―社長はそういうタイプだけを採用していたので―大変残念ですが、今は元気にやっていることを祈るばかりです。

ブラック企業に勤めていた頃の思い出(4)

 わたしが会社で働き始めたとき、正社員(従業員)は男性2名、女性1名でした。「あれ? 募集資料には5名と書いていたけど・・・」と思いましたが、後で確認したら、わたしが働き始めたときには他の社員はすでに退職していました。

  しかし勤めだしてすぐに分かったのですが、その会社では人数をカウントしても意味がありませんでした。なぜなら、社員がすぐ辞めてコロコロ人数が変るからです。

 会社には中間管理職が存在せず―以前はいたのかもしれませんがわたしが就職したときはいませんでした―社長が直接業務の指示を出していたのですが、社長はだいたい週3日程度、つまり隔日程度しか出社しません。

  それで出社したときに会議や打ち合わせするのですが、これはほぼ社長の怒号と難詰だけに終始します。短くて半日、長いと一日中朝から晩まで社長から怒号と罵声が浴びせられます。そのさい机や壁をバンバン叩くわ、資料やホワイトボードのマーカーを投げまくるわ―ただし直接当たらないように注意して投げてはいましたが―、声だけで身体的な動作を伴って怒りまくりました。

 社員が全員そろって罵倒される場合も一人ずつ難詰される場合もありますが、いずれにしても社長はだいたい一日中怒鳴っています。

 わたしのように軟弱な人間はそもそも一日中怒鳴る体力もエネルギーもないのですが、社長は身長は180cm近くあり恰幅も良く、見るからにパワフルで威圧感も相当あります。ある女性社員は自分自身は一度も怒鳴られたことがないにもかかわらず恐怖のあまり3日でやめました。

  わたしが就職したとき、わたし以外の男性社員は20代後半と30代前半の若者でしたが、その扱いはひどいものでした。

 彼らはひとえに社長から怒鳴られないことだけを目的に仕事をしていたようなものでした。良い仕事をしようとかクライアントから評価されようとか業績を上げようとかスキルを向上させようとか、およそ普通の社員が働く目的に掲げるようなことは一切考える余裕がなく、ともかく恐怖によってマインドコントロールされているような状態でした。

 

 まずこの一点だけですでに典型的なブラック企業の条件を満たしています。ただ、怒声も含めた「身体的パワー」で恫喝しまくるだけであれば、ブラック企業というよりは「舎弟企業」ないし「アングラ企業」に近いと思うのですが、なかなかどうして、巧妙な仕掛けもいろいろ用意されていたのです。

ブラック企業に勤めていた頃の思い出(3)

 ブラック企業にもいろいろなタイプがあります。

 というか、考えてみればそもそも企業という存在の由来がブラックです。言うまでもなく資本主義のことです。

 

 19世紀初期資本主義の企業ーというか工場ーは悲惨です。小さな子どもや婦女子など弱い存在ほど酷使され、映画の『あゝ野麦峠』の製糸工女の世界です。

 マルクスのおかげなのかどうなのか知りませんが、20世紀になって資本主義も変容し、奴隷同然の酷使は徐々に改善されていきました。そして日本だと第二次世界大戦後の高度経済成長期、一時期三池炭鉱争議や安保闘争で盛り上がったりしましたが、一億層中流化して労働者も保守化しました。

 ただブルーカラーに代わって今度はホワイトカラーの「過労死」が登場するようになります。

 しかもそれもたびたびマスコミで取り上げられて騒がれたりしたおかげで労働時間の短縮など労働環境の改善は一応進められてきたはずでした。

 

 状況が変わってきたのは、中期的に言えばバブル崩壊以降の平成不況、そして止めを刺したのがリーマンショック。デフレ経済化での人減らしで失業者が一挙に増え、正規雇用が減らされ、非正規雇用派遣社員が増えました。

 解雇や非正規雇用が増えたということは、労働市場が流動化して欧米のようになった、とも見えます。ですが、この「流動化」のかげで、それまでにはあまり見られなかった一風変った「ブラック企業」も現れてきました。

 

 それがわたしが就職した会社でした。

ブラック企業に勤めていた頃の思い出(2)

 先日の話の続きです。

 

 面接は結局、1時間ぐらい社長が一方的に話をして、あとは過去の経歴やスキルについて簡単に質問されただけでした。そして新規事業の展開にどうしても特定のスキルをもった専従スタッフが必要で、しかも4月から早速スタートするのでできればすぐにでも来てもらいたい、とのことでした。要するに、提出した職務経歴書だけで内定を決めていたということでしょう。

 わたしはそのときは社長について、押しが強そうではあるが基本的に紳士的な人だ、という印象をもちました。事業内容や事業計画についても具体的な数値を細かく上げながら丁寧に説明してくれましたので、さすがにコンサルだけあって頭が切れそうだとも思いました。ちなみに社長はもともと一部上場の大手企業のサラリーマンだったのですが、課長職のときに脱サラして友人達と一緒に起業したそうです。ただその後紆余曲折を経て、他の友人達は会社から離れて現在は社長一人が経営者として残っているということでした。

 

 わたしは当時は、年齢が年齢だけに相当の苦戦を覚悟していたので、たまたまスキルがマッチングする就職先が見つかってラッキー、と内心大喜びでした。もちろん妻も喜びました。

 結局きりのいい4月1日付けでの採用ということになりました。初日の1日にオフィスに出向くと、再び社長の奥さんが出迎えてくれて、簡単な入社手続きをした後に従業員のいる仕事部屋に案内されました。そこには男性社員と女性社員の2名がいました。

 部屋に入って2人と挨拶したそのとき、隣の部屋から社長が男性社員を呼びつけました。男性社員があわてて行くと、突然とてつもない怒鳴り声。ものすごい大声が会社中に響き渡り、しかも机をバンバン叩いたり、ホワイトボードをガンガン殴りつけたりする音がします。

 

 「これはもしや・・・」 全身から血の気が引いたことは言うまでもありません。

 

ブラック企業に勤めていた頃の思い出(1)

 先日、数年前までブラック企業に勤めていた話をしましたが、少し話を続けようかと思います。

 この会社にはハローワーク経由で入りました。一般の転職エージェントや転職サイトも一応登録しましたが、すでに中年オヤジの年齢になっていたので期待はあまりできず、ハローワークの求人情報もマメにチェックしていました。

 当然ハローワークの求人は中小企業ばかりで、しかもブラック率が高いことは承知していました。したがってとりあえず就職してみてダメだったらすぐ辞めればいいや、ぐらいに考えていました。

 これがそもそも根本的に誤りで、まったく甘い考えであることは後になって分かりました。

 

 ただ就職の機会は意外に早く来ました。就職活動を始めてから1ヶ月もたっていない3月半ばのある日、ひょっとしたら見込みがあるかもしれない求人を見つけました。事業内容は経営コンサル、とくに販促・SP(セールスプロモーション)を中心にしている会社で、社長以外に従業員が5名ということです。設立から10年近くたっているのですが、これまでずっと少人数でやってきたが新規事業を拡大するので急遽人材募集、と書いてありました。

 わたしはコンサル業にはまったく縁がなくスキルもキャリアもないのですが、採用条件に一般の事務系の人にはほとんどないじみのないある特殊なパソコンソフトのスキルがあり、わたしはたまたま専門学校の講師をしていた時代にそれを身につけていたので、これはいけるかもしれないと思い応募することにしました。

 求人を見つけて早速電話で連絡すると、すぐにでも面接したいとうことでした。そこで数日後、六本木の雑居ビルにあるオフィスを訪ねました。

 

 オフィスはペンシルビルのワンフロアー・ワンルームでした。広さは40平米もないでしょう。ただ掃除は行き届いているようで見かけは清潔できれいでした。

 入り口で出迎えてくれたのは、一瞬「お!?」と戸惑ったほど30歳ぐらいの仲間由紀恵似(マジ)の美人の女性でした。後で分かったのですが、女性は社長の奥さんでした。パートの女性事務員が病気で入院したで急遽手伝いに来ていたのでした(ちなみに奥さんは形式上は役員です)。

 奥さんは「ちょっと場所分かりづらくありませんでした?」とニッコリ微笑みながらお茶を出してくれて、わたしは年甲斐もなくちょっとドギマギしながらミーティング・テーブルにしばらく座っていました。

 やがてパーティションで区切られた奥からおもむろに社長が現れました。ロマンスグレーのボリュームのある髪とひげをたくわえ、黒のタートルネックとグレーのジャケットといういかにもコンサルっぽい出で立ちでした。雰囲気は若い頃の津川雅彦に似ています(社長の年齢は50歳です)。

 「今日は面接に来ていただいて有り難うございます」とよく通る太い声で丁寧に挨拶してきました。ただ、口元は笑みを浮かべているのものの目が笑っていない。

 社長はまず会社の説明をしばらくしました。会社の経緯、事業内容、組織構成などを卓上プロジェクターを使ってひとしきり説明した後、最期に一言次のように言って話を締めました。

 「再来年度には六本木ヒルズに引っ越す予定です。」